- 2010-07-30 (Fri) 12:00
- column
昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。
永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。
午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。
頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。
着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。
その人は赤ちゃんを抱えていた。さらに、その下には大きな穴が掘られていた。
母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。
どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。
赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。
わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。どの顔も涙で汚れゆがんでいた。
一人がそっとその場をはなれ、地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。
若い顔がそこに現れた。
ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。
人間の愛を表現する顔であったのか。だれかがいった。
「花があったらなぁ‥」
あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。
私たちは、数え十九才の学徒兵であった。
- Newer: 第92回全国高校野球選手権愛知大会
- Older: Guy Walks Across America
Comments:4
- hanakura 10-07-30 (Fri) 13:31
-
これはなにかの書物からの引用ですか?
読みたいです - K's novo 10-07-30 (Fri) 13:50
-
> hanakura さん
これは、学徒兵として遺体の処理作業に従事されていた須田卓雄さんが、1970年12月29日付の朝日新聞紙上に発表された体験談だそうです。
「写真版 東京大空襲の記録」という本にも紹介されているみたいですね。 - hanakura 10-07-30 (Fri) 13:56
-
私は小学生の一部を広島で過ごしたんですが、
校歌の出だしが、
「原爆の、苦難しみじみ耐え抜いて、
今蘇る平和都市」 でした。。
ともだちのお母さんやおばあちゃんが被爆者手帳を
持っていたりして、なので、なんだか興味という言葉は違うのかもしれないけど、読みたくなったというわけなんです。 - K's novo 10-07-30 (Fri) 14:27
-
色々な所を移り住んでいるんですね。
広島は被爆体験とは比べものになりませんが、ウチは祖父が出兵していたということと、父親と母親が疎開していた世代ですので、子供の頃から戦争体験はかなり聞かされていましたが、名古屋はさほど爆撃が酷いという程ではなかったので実感が殆ど無いんですよね。僕の実家も焼け残っていましたから‥おかげで風呂もない古い家でしたけど。因みに僕の小学校の校歌の歌い出しは「大名古屋市の真ん中に輝く歴史の小学校」でして‥「大名古屋」はどうかと思いますが、歴史は寺子屋時代からの書籍が残っているぐらい歴史のある学校でしたね。僕が通っていた頃で、既に開校110年ぐらいでしたから。
Trackbacks:0
- Trackback URL for this entry
- http://www.ksflower.org/wp-trackback.php?p=6586
- Listed below are links to weblogs that reference
- 花があったらなぁ‥ from K's flower column



